高瀬舟 その2

暫くして、鬼はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「スグル。お前何を思つてゐるのか。」
「はい」と云つてあたりを見廻したスグルは、何事をかお鬼に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して鬼の氣色を伺つた。
 鬼は自分が突然問を發した動機を明して、役目を離れた應對を求める分疏(いひわけ)をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。實はな、己は先刻からお前の超人墓場へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟で大勢の超人を墓場へ送つた。それは隨分いろいろな正義や悪魔や残虐の超人だつたが、どれもどれも墓場へ往くのを悲しがつて、見送りに來て、一しよに舟に乘る仲間のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の樣子を見れば、どうも墓場へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一體お前はどう思つてゐるのだい。」

 スグルはにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程超人墓場へ往くといふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれはいつも乳母日傘の中で暮らしてゐる超人だからでございます。地球は結構な星ではございますが、その結構な星で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。超人閻魔の計らゐで、超人墓場へ遣つて下さいます。超人はよしやつらい所でも、地獄のような所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度超人閻魔が超人墓場にゐろと仰やつて下さいます。そのゐろと仰やる所に落ち著いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにか品の良い幾許か体の酔わさうな風貌ではございますが、つひぞ病氣をいたしたことがございませんから(鬼にはそのやうに見えなかつたが)、超人墓場へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島墓場お遣下さるに付きまして、二百超人ドルの鳥目(てうもく)を戴きました。それをここに持つてをります。」かう云ひ掛けて、スグルはパンツに手を當てた。超人墓場行きを仰せ附けられるものには、鳥目二百超人ドルを遣すと云ふのは、當時の掟であつた。

 スグルは語を續いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで爲事(しごと)に取り附きたいと思つて、あるばいとを尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。しかし、いつもいつもわたくしは失敗ばかりで牛丼屋で働けば客を怒らせてしまゐ、でぱあとで働けば店のものを壊して借金を増やす始末。現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの付き人のみゐとの工面の好い時で、大抵はみゐとに奢ってもらゐ、御新香と味噌汁をつけた牛丼を食べさて貰ったのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百超人ドルを戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。超人墓場へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百超人ドルを超人墓場でする爲事の本手にしようと樂しんでをります。」かう云つて、スグルは口を噤んだ。

 鬼は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事毎に餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。
 鬼は彼此初老に手の屆く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の超人墓場の名家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。鬼は五節句だと云つては、里方から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填(う)めて貰つたのに氣が附いては、好い顏はしない。格別平和を破るやうな事のない鬼の家に、折々波風の起るのは、是が原因である。

 鬼は今スグルの話を聞いて、スグルの身の上をわが身の上に引き比べて見た。スグルは悪魔超人や怪獣を倒して給料を取ろうとしても、そのやうなものは貰わずに亡くしてしまふ。いかにも哀な、氣の毒な超人である。しかし一轉して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分は上から貰ふ扶持米(ふちまい)を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。スグルの難有がる二百超人ドルに相當する貯蓄だに、こつちはないのである。
 さて立場を違へて考へて見れば、鳥目二百超人ドルをでも、スグルがそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出來る。しかしいかに立場を違へて考へて見ても、不思議なのはスグルの知恵のないこと、頭が足ることを知つてゐることである。
 スグルは世間で暮らしていくのに苦んだ。それでも怪獣が街を襲へさえすれば、骨を惜まずに戦って、やうやう口を糊することの出來るだけで滿足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた牛丼が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである。

 鬼はいかに桁を違へて考へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに滿足を覺えたことは殆ど無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奧には、かうして暮してゐて、ふいと怪獣や悪魔超人が地球を襲って地球が滅亡したらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼(ぎく)が潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。

 一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それはスグルには身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれはである。よしや自分がスグルのやうに超人であつたとしても、どうもスグルのやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い處にあるやうだと、鬼は思つた。
 鬼は只漠然と、超人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。親がいてもその親がいなかったらと思ふ。此の如くに考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此スグルだと、鬼は氣が附いた。
 鬼は今さらのやうに驚異の目をみはつてスグルを見た。此時鬼は空を仰いでゐるスグルの頭から毫光がさすやうに思つた。

続く